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41歳のオヤジだけど2024年8月に17年勤めた会社を退職して、妻の実家がある芦北まで亡くなった伯父の墓参り、日田にいる知人に会うべく青春18きっぷで旅をしました。最寄りの群馬は敷島駅の始発で経ち、初日は岩国、二日目に芦北入りしてその後すぐに日田へ、三日目に日田の知人に会って日田観光と食事ののち福山へ、四日目には地元敷島へ帰ってくることが出来ました。日本の鉄道網は本当に素晴らしいです、この4日間でほとんど運休や遅延なくほぼ定刻で運行されてました。今後の人生でも間違いなく上位に残るいい思い出です、9月より新しい職場で心機一転頑張ります。
関係なくて草😉
地元の「豊橋」に停車する唯一のブルートレインでした。【銀河】も停車した時期があったけど2時だか3時くらいだった。写真撮影が可能だったのも【さくら】【みずほ】【はやぶさ】かろうじて【あさかぜ】くらいだった。懐かしい。
私は田原ですw上りの「さくら」や名古屋始発の「ひかり」を帰省時に従兄と見に(写真撮りに)渥美線の始発に乗って行きましたね。
ワイ@東京23区。オールOK😁
配信ありがとうございます。何度も「さくら」に乗って帰省しました。当時はまだ3段式寝台でとても窮屈でした。佐世保編成を切り離した後は速度がガタ落ちしていました。いろんな記憶が蘇りました。
これでも20系とは違いベッド幅が52センチから70センチに拡大されていて2段寝台車とは全く同じです。狭くはないです。上下の高さが低いだけです。ちなみにソロもデュエットも同じです。寝台電車583系の下段だけは106センチと広かったですが!
豊橋育ちの鉄道ファンです。他の方のコメントにもありましたが、さくらは唯一豊橋に停車する寝台特急で親しみがありました。この当時は浜松は通過していたのですね、子供の頃は、はやぶさ、みずほ、瀬戸、出雲、富士、あさかぜ等が静岡、浜松には停車して豊橋は通過するダイヤを見て切なさを感じてました🥲
72~76まで夏休みには父の故郷の五島に行くのに毎年乗ってました今思うと蒲田住みなのに横浜からでなく東京から入線するのを見ながら乗車記憶があります日ノ出とともに瀬戸内の海がキラキラしてキレイでしたし、踏切の通過音もよく憶えてるポンジュース・冷凍ミカン・お茶(プラスチック)・ビュッフェでのハンバーグステーキも忘れられない記憶です新幹線での所要時間やスペースを考えると不能率極まりないですが、とても有意義な時間をいただいた気がします
次発のブルトレを担当する機関車が田町から客車をひいて東京に入線するのを迎えるところから楽しめたんだから、良かったじゃないですか
@@こちたんぱぱ さまこの時代は東京駅から本務となる機関車が品川の客車区から列車を牽引、東京駅で機回しをして下り方面の先頭に立っていました。次に出る列車の機関車に牽引されて東京駅まで回送されるようになったのは東北新幹線の工事が始まって11番線が機回しで使えなくなったからです。その時は下り側に機関車を止めておく線路があり、次発列車を牽引する機関車が東京駅まで回送を行い、回送後に切り離しを行った後、留置線に止めてあった本務の機関車を下り側の先頭に連結していました。
編集お疲れ様です。さくらは90年代の学生の頃博多から東京に帰る際に乗車した事あります。初めての寝台特急でした。うろ覚えですが空いてる食堂車で食事していると厨房の方?が青森なまりで色々お話を聞かせてくれました。夜明けには通路の簡易席であの紙コップで水飲みながら景色を見ていた記憶があります。余裕があれば廃止の前に色々な寝台特急に乗ってみたかったです。
この時代だと思いますが「新日本紀行」で寝台特急さくらを東京から長崎までの車内をレポートした回をRUclipsでアップされてましたので視聴しました食堂車で働くスタッフのみなさんの奮闘ぶりは今見ても本当大変そうでした
深夜まで調理、サーブを終えた後食堂車で仮眠、さらには早朝から来られる皆様に対応するために早朝にレンジを起こすことを考えると仮眠時間は2、3時間だけだったことと思います。
さくらの元車掌さん(つい先日まで勤務して故郷?に帰るための乗車)が 現役の車掌さんといっしょに「ハチクマライス」のようなものを食べてましたね
朝から晩まで上野、東京に入り浸ってた時期です。懐かしい。
懐かしい 昭和58年の高校の修学旅行で志賀高原のスキーに行って行きは新幹線とぐったりしなの(笑)381系の強制振り子で列車酔いが多発 帰りもしなのでぐったりそして名古屋からさくらに乗車14系の3段寝台で上段で寝ましたが1月の寒いときに暖房が効かなくて寒いし(泣)風邪を引いた記憶があります 今ではいい思い出ですが・・・とにかく思い出のある寝台特急でした
佐世保行が連結されていて、牽引機がEF65-1000だった時代ですね。後に(5年後)簡易個室であるカルテットが連結されますね。因みにさくらが運転開始直後の1960年に上映された中村嘉葎雄と(萬屋錦之介の弟で、中村獅童の叔父)三國連太郎主演の映画「大いなる邁進」でEF58やSL牽引のさくらが舞台になっています。
後年上りのさくら号で一人の青年がギターを持って長崎から上京されましたね。今や押しも押されぬ大スターになっています。
この弁当の価格って1980年当時のもの?今とかわらないじゃん!
東海道線の夜行列車が華やかだった時代は横浜在住で、横浜駅で乗車の際一般の電車に乗るのとは違った高揚感がありました。折り畳み式のドアが開いてから二段のステップを踏み締め、客室に入るのは長旅の始まりの儀式とも言えました。車内で梯子を上り降りしたこと、上段の小さな窓から景色を楽しんだのも幼き頃の良き思い出です。
よく鳥栖駅で、みずほ号を見かけました。熊本行きと長崎行きの切り離しで長時間停車してました。これに乗って東京に行ってみたいな、と子供のころ夢見ていました。結局無くなってしまうまで乗らずじまいでした。サンライズにはいつか乗ってみたいと思います。
制作ありがとうございます。やっぱりこのフォントはいいですね。父親が長崎出身だった縁で、「さくら」「みずほ」には何度かお世話になりました。特に「さくら」は国内唯一の列車番号1で誇らしかったものです。当時は「なぜさくらとみずほだけは三段式寝台なのか」と思ったものですが、今にして考えれば需要が多かったから乗客減になる15型の導入をあえて見送ったのかもしれませんね。19時頃の乗務掛の寝台設置のために乗客が皆廊下で待っていたこと。名古屋でも京都でも大阪でも深夜だというのに撮り鉄少年が駅に撮影に来ていたこと。朝6時になると食堂車の準備が出来たと放送があったのでいの一番に乗り込んで洋定食を食べたこと。通過する駅の駅名標に「すおうとんだ」(「すおう」が小さい字)と書かれていたこと。下関で1号車までEF81-300を見に行ったらEF30が来てがっかりしたこと。車内販売が何度も往復していたのに小遣いが足りずほとんど何も買えなかったこと。上段だったのを良いことに肥前山口から長崎まで二度寝したこと。懐かしい思い出ばかりです。
1980年広島で暮らしていました。広島発新見行きの芸備線列車懐かしい。
ありがとうございます今度は92年の時刻で特急「かもめ2号」と特急「いそかぜ」米子行の時刻表旅をリクエストします
動画作成者さんはあまり山陰本線には興味がないのかも。以前から、京都or大阪~山陰本線経由の特急まつかぜ(博多行)をリクエストしているのですが、そのままになっています。。。
細かいことですが「新南陽市」は「新南陽」ですね。周防富田から改称されたときですね。その先で、現在とは名前が異なる駅小郡→新山口新中原→九州工大前筑前新宮→福工大前白木原→大野城三田川→吉野ケ里公園肥前山口→江北
@@hc-ir2dr 様へ。昔の駅名で覚えたから、新しい現行の駅名を耳にすると、エッ、何処の駅と思います。
@@hc-ir2dr さまこうしてみるとJR九州のエリア内で新駅の開設や駅の名称変更があちこちで行われたことがよく分かりますね。地域に密着した鉄道であることをアピールしています。
この時刻表から15年ぐらい後の時代京都駅場面において、東京発九州行きの最後の列車(列車名は忘れました)は下り普通列車の最終が出た後に出発をして大阪に停車してくれたので、京都の呑んで最終に乗り遅れてもタクシーで京都から大阪に帰るより、乗車券、特急券、寝台券を払う方が安かったので、何度か乗車したことがあります。 懐かしい思い出です。
出来れば、寝台特急出雲と急行銀河に乗りたかったですね。出雲には乗れる機会がありそうでしたが、高速バスに乗ってしまいました。その後、出雲号はは廃止になったんですね。
この頃でしたらヘッドマークが花びらが白で背景がピンクの白桜と花びらが赤で背景が白の赤桜の2種類あった時代ですね。ただ、当時は合理化により東海道のブルートレインだけヘッドマーク付きだった時代でしたが。後に全国のブルートレインにヘッドマークが復活するようになった頃に、背景が緑で花びらがピンクのものも出現しましたが、最終的には「さくらはやぶさ」になってしまったのは時代の流れとはいえ何か虚しかったですね...
私は東北に地縁があったので、鉄道好きな友人が東海道ブルトレ推しだったのに対して、機関車がスマートに見えると言い張って一時期マーク無しだった東北・北陸ブルトレを推していました。しかし、東海道ブルトレ以外にもヘッドマークが復活したら、すぐに撮影に走りましたね。ほんとは羨ましかった…
私は当時福岡に住んでいました。九州ではヘッドマークがついていなかったのは残念でした。寝台特急のヘッドマークは1975年に東京駅発着の列車以外は廃止されてしまいましたが、1984年に九州で復活、その翌年1985年に全国で復活しました。
2000年過ぎてから乗りました。今思えば昭和の雰囲気を感じられた最後の姿でした。B寝台で老若男女が集い知らない人同士で会話する・・・そんな光景がありました。懐かしくて涙が出ます。今はそんな旅も消えて行っています。
一般の電車の車内でも景色を見たり語らいや情報交換をするよりもスマホの画面ですしね。
それは夜行急行でも同じでしたね。特に北海道とか。今は、もうプライバシーとか何とか言って、ああいう空間自体が好まれなくなった気がします(だから、サンライズ出雲が人気なわけです)。夜行バスはすぐ消灯する上、3列席だと会話は生じないし。
@@TSUYOS185 さん、寝台特急が走っていたころは単行本か新聞か雑誌かでしたからね。平成でも読み終わった新聞を回し読みしたりしておおらかな時代でした。一番懐かしいのはムーンライト九州の展望車ですけど。
@@kataakeo7730 さん、北斗星のパブタイムは贅沢な時間でした・・・。北斗星はあまり会話がなかったですが。道内夜行は平成初頭でも、稚内行以外は利用者が激減していて寂しかったですが。(網走行は、旭川から先4列向かい合わせにして寝ても迷惑にならないほど)
前後の優等列車の中で急行「銀河」が抜けてますよ!
この2年後の1982年の夏にさくらの東京→長崎を乗車しましたので、停車駅は恐らく同じでしたね。当時は東京→下関がEF65-1000でしたが、九州内が北陸から転属したEF70が牽引しました。通常は恐らくED76だったでしょうが、ED75-300やEF70の日もあったでしょうね。そして当時の長崎駅で、さくら号の特急・寝台券を有無もなく回収されたのが残念でした。駅や管理局にもよりましたが、国鉄の融通のなさが感じられました。
今から見るととても非効率的でしたが、この時代のゆったりとした流れが良かったな。80年代のタイムテーブルをたくさん上げてください。
しばらく戦前シリーズでしたが、鉄道旅行が楽しかったのは70~90年くらいでしょうか?それ以前だとやたらと混んでいたとも聞きますし。戦前で鉄道旅行が楽しかった時代は会ったのでしょうか?
自分にとってはあまり縁のなかった列車。長崎に行く予定ができたときにはもう廃止されており、結局飛行機往復でした。。。
朝,食堂車で車掌さんがハチクマライスを食べていた光景
転勤で九州福岡へ、初めての一人暮らし、ゴールデンウィーク中の移動で切符がやっと取れたのが寝台特急の「さくら」でした。客車は3段で中段でした。あまり眠れなくて早朝博多に到着、町はドンタクで賑わってました。もう何十年の思い出です。
ドンピシャ世代です。乗ったことはありませんが、小学校入学時に買ってもらった筆箱はPF牽引“さくら”のものでした。たまたま東京駅へ行き、普段はピンク地に白い花柄だったヘッドマークが、白地にピンク花柄のものをつけていたのを見た時の嬉しさは忘れられません。後年、白地がスタンダードになったのは悲しかったなあ
私にとってブルートレインで真っ先に思い浮かぶのがこの「さくら」です。「さくら」のヘッドマークを掲げてEF65が疾走する姿がすごくサマになってるんですよね。停車駅の少なさも特急らしさが出てますね。浜松・岐阜・神戸・岡山通過は驚きました。
沼津駅で急行東海に接続していた記憶があります。1980年10月は東海の時間が変わっていたかな?
この改正で4往復から2往復に減便されています。
僕が「さくら」に乗ったのは1983年の3月・僕の中学校入学祝いの家族旅行でした。夜中の3時くらいにトイレに行こうと起きだすと、親父が廊下の補助椅子に腰掛けて暗い瀬戸内海を見ながら缶ビールをチビチビ飲んでいた(普段は一滴も飲まない人だった)のを今でも鮮烈に覚えています。当時親父が会社で待遇などでもめていたと知ったのは大分後になってからのことでした(家族旅行も気分転換するためだったのではないかと想像しています)。親父亡き今となってはあの時すぐ寝台に戻らず愚痴のひとつも聞いてやるべきだったと思っていますが…文字通り「バ〇の知恵は後から出る」というやつですね
子供の頃親にせがんで数回ブルートレインに乗りました。廃止された当時の状況とは今の日本は全く違うと思います。夜行バスだけでなく、定時運行に優れ、快適かつ安全に、寝ながら移動したい人たちはインバウンド需要の中でも一定数あると思われます。例えば、新幹線の止まらない東京〜三重県、奈良県、和歌山県などに途中分割して運行できないかと思ったりします。東京駅発着は混雑で余裕がないと思いますので、品川駅からだと時刻を早くしてゆったり過ごすことも可能なのではかと思います。いつもともやんさんの動画を見て、色々と思いを馳せ楽しませていただいております。ありがとうございますこれからも楽しみにしております。
客単価¥30,000ないと儲からない😵
この時代はブルートレインブームですものね。私が1歳になった時ですね。
あと池沢さとし先生のサーキットの狼で、スーパーカーブームでしたね・・・
駅弁のご案内、すごく好き値段が時代を感じます
東京から大阪に帰るのに、新幹線でなく、さくらに乗りたいと言って、却下されたのが、丁度この頃昭和55年頃でしたts
名古屋近郊出身のボクは東京を一番早く出発して東京に一番遅く到着するさくら号を眺める機会が最も多かったので、今も寝台特別急行列車の代名詞的な存在です。
3:58 豊橋駅接続の東海道本線 1545M 普通米原行の行き先が「浜松行」になっています。東海道本線内の停車駅がかなり厳選されていますね。熱海、浜松、岐阜も通過なのには驚きました。
さくら三題…大いなる驀進喜劇急行列車皇帝のいない八月ブルトレでこれだけの銀幕に掛かった列車を他に知らない。あさかぜでさえ松本清張の点と線の映画化バージョンだけですね~
大阪ー青森間の寝台特急日本海号の時刻表を取り上げて下さいお願いします。
いつも楽しみに見ています。素晴らしいです。それにいい感じのメロディーと、何と言う曲ですか?内容とピッタリですね!!
概要欄の一番下にBGM情報はありますね。
これまた懐かしい。熱海通過だったんですね。東日本と東海の分岐点でしょうから、今では考えられないですよね。
熱海は、東京から九州に行く寝台特急では一部列車のみ停車のようです。それは沼津も同様。
新鳥栖or博多と武雄温泉で乗り換えれば済むから、現在は東京から長崎はずいぶん早く行けるようになりましたね。 時間はすごくかかるものの、長崎から東京までずっと乗り換えなしで行ける便利さも捨てがたい。 この2つを両立した列車が欲しいところです。
懐かしいなぁ(^^)国鉄職員だった亡父に「乗り放題(正式名忘れた)」を発給してもらって、往復自腹で特急&寝台券を払って行った「傍若無人の1980年8月」当時、厨房2回生だった自分の旅を思い出す。当時、長崎駅前端にあった「新川(だったかな?)旅館」・・・厨房の俺様を快く迎え入れ「江戸から小僧が単騎で来訪」を随分に驚かれ、老宿主夫婦とはその後幾重にも交流してたもんだ。当然、当時の老夫婦からは代替わりされたと思うし、宿を継続されてるのかも分らんが還暦を見舞えた今・・・長崎へ旅してみたいものだよ
始発、終点だけみたら、他の交通機関との競合もあるんだろうけど、途中停車駅を使った地方都市間輸送に特化させたら利便性あるんじゃないかなと思った。
けど今は客単価¥30,000ないと儲からない😵
筑肥線の 都市部 区間は 現在 地下鉄化されました。
別ルートでの地下化になりましたけどね。もとの区間は筑肥線のドル箱だったのに廃止されています。
@@TSUYOS185 踏切を 消すために 廃止されました。
もともと利用していた人たちにとっては、不便になったでしょうね。七隈線で救済されたところもごく一部のようですし。
この頃の国鉄には新幹線🚅・山手線🚃♻️以外にドル箱はない😉
特急「さくら」 東京 → 横浜 → 沼津 → 静岡 → 豊橋 → 名古屋 → 京都 → 大阪 → 広島 → 徳山 → 小郡(新山口) → 宇部 → 下関 → 門司 → 小倉 → 博多 → 鳥栖 → 佐賀 → 肥前山口 → 諫早 → 長崎 😮
この時刻表を見ていましたら、ブルートレインが廃止になる前に乗っておけば良かったと思いました。後悔しています・・・
寝台特急さくらは、あさかぜと並んでブルートレインを代表する列車です。今は、サンライズ瀬戸、サンライズ出雲を除き夜行列車は走って居ません。因みに新垂井駅は6年後の国鉄最後のダイヤ改正で廃止されました。
この頃は食堂車も車内販売もありましたね。弁当、お土産、お酒やコーヒーも買えました。近年の臨時のサンライズ出雲は所要時間は20時間近くかかりますが、乗車前に食べ物や飲み物の購入が必須に。個室で冷えたビールや温かいコーヒーを飲むのも贅沢な時代になりましたが、それを差し引いても夜行列車の旅は魅力あるものと言えますね。
だから今は長距離フェリー🚢の方が楽しい😁
あこがれてたけどまだ小学生だったから乗れなかった。
佐世保行きの、早岐でのスイッチバックで機関車をどのようにしていたのかを知りたい
誰かがコメント💬してる😉
東京を夕方に出て長崎にはほぼ正午に到着・・。
今の都内在住者なら、朝7時台(場所によっては8時過ぎ)に家を出て、羽田に行って長崎便に乗り、正午過ぎに長崎市内に着いてしまいますね。羽田発の九州各都市行の便はどこも混雑しているはずです。
このダイヤの7年後、分割民営化直前にさくらに乗車しました。東京発が16時40分だったと記憶しています。大阪が23時25分くらいだったかな。PF牽引の時刻と比べると、ロクロクの底力が感じられます。スピードアップのために開発されたんだなって思いました。形はPFの方が好きだけど。九州寝台の復活、不可能なのはわかるけど期待しちゃいます。
EF66はもともと貨物列車用のハイパワー機関車として開発されたものの、貨物列車の大幅な削減で旅客用に転用されたものでした。スピードアップだけでなくはやぶさ号のロビーカー連結にも対応していました。最初は違和感があったものの、力強いブルートレインとしてさまになっていましたね。
@@TSUYOS185 そのロビーカーの試用が、北斗星への連結や、富士との共通運用による連結と、使用場面が増えていく先駆けになったんですよね。
EF66型がブルートレインの牽引として、ロクマルサンダイヤ改正で誕生したんだけど要するに貨物列車が削減された結果で主に二次型を除いて中心に下関運転所が担当することになりました。それまでの牽引のEF65型1000番台PF型ば前年に東京期間区から新鶴見期間区でした。ただし品川客車区常駐でした。
福山雅治が長崎から上京する際、乗車したのがさくら号。
佐世保編成の時刻も見たかった😢
早岐と佐世保だけの停車でした。武雄温泉や有田は通過でした。早岐で方向が変わるので本務機関車のED76は後ろに付けたまま前にディーゼル機関車を連結、牽引していました。
寝台特急「さくら」には食堂車が連結していたな
ブルートレイン人気No.1特急界のスター軍団の先頭に立つ人気列車東京始発の先陣を切って九州に旅立つのはスターたる所以
東京発の寝台列車1番手で栄光の『1レ』だった『さくら』最後は鳥栖エンドってのは儚かった。最近鉄道模型で20系の『さくら』が長崎編成と佐世保編成で別々ながらリニューアルされたようで。
どうせなら肥前山口⇔佐世保もやればえェのにィ!(^▽^;)
41歳のオヤジだけど2024年8月に17年勤めた会社を退職して、妻の実家がある芦北まで亡くなった伯父の墓参り、日田にいる知人に会うべく青春18きっぷで旅をしました。最寄りの群馬は敷島駅の始発で経ち、初日は岩国、二日目に芦北入りしてその後すぐに日田へ、三日目に日田の知人に会って日田観光と食事ののち福山へ、四日目には地元敷島へ帰ってくることが出来ました。日本の鉄道網は本当に素晴らしいです、この4日間でほとんど運休や遅延なくほぼ定刻で運行されてました。今後の人生でも間違いなく上位に残るいい思い出です、9月より新しい職場で心機一転頑張ります。
関係なくて草😉
地元の「豊橋」に停車する唯一のブルートレインでした。【銀河】も停車した時期があったけど2時だか3時くらいだった。写真撮影が可能だったのも【さくら】【みずほ】【はやぶさ】かろうじて【あさかぜ】くらいだった。懐かしい。
私は田原ですw上りの「さくら」や名古屋始発の「ひかり」を帰省時に従兄と見に(写真撮りに)渥美線の始発に乗って行きましたね。
ワイ@東京23区。オールOK😁
配信ありがとうございます。
何度も「さくら」に乗って帰省しました。
当時はまだ3段式寝台でとても窮屈でした。
佐世保編成を切り離した後は速度がガタ落ちしていました。
いろんな記憶が蘇りました。
これでも20系とは違いベッド幅が52センチから70センチに拡大されていて2段寝台車とは全く同じです。狭くはないです。上下の高さが低いだけです。ちなみにソロもデュエットも同じです。寝台電車583系の下段だけは106センチと広かったですが!
豊橋育ちの鉄道ファンです。
他の方のコメントにもありましたが、さくらは唯一豊橋に停車する寝台特急で親しみがありました。
この当時は浜松は通過していたのですね、
子供の頃は、はやぶさ、みずほ、瀬戸、出雲、富士、あさかぜ等が静岡、浜松には停車して豊橋は通過するダイヤを見て切なさを感じてました🥲
72~76まで夏休みには父の故郷の五島に行くのに毎年乗ってました
今思うと蒲田住みなのに横浜からでなく東京から入線するのを見ながら乗車記憶があります
日ノ出とともに瀬戸内の海がキラキラしてキレイでしたし、踏切の通過音もよく憶えてる
ポンジュース・冷凍ミカン・お茶(プラスチック)・ビュッフェでのハンバーグステーキも忘れられない記憶です
新幹線での所要時間やスペースを考えると不能率極まりないですが、とても有意義な時間をいただいた気がします
次発のブルトレを担当する機関車が田町から客車をひいて東京に入線するのを迎えるところから楽しめたんだから、良かったじゃないですか
@@こちたんぱぱ さま
この時代は東京駅から本務となる機関車が品川の客車区から列車を牽引、東京駅で機回しをして下り方面の先頭に立っていました。
次に出る列車の機関車に牽引されて東京駅まで回送されるようになったのは東北新幹線の工事が始まって11番線が機回しで使えなくなったからです。その時は下り側に機関車を止めておく線路があり、次発列車を牽引する機関車が東京駅まで回送を行い、回送後に切り離しを行った後、留置線に止めてあった本務の機関車を下り側の先頭に連結していました。
編集お疲れ様です。さくらは90年代の学生の頃博多から東京に帰る際に乗車した事あります。初めての寝台特急でした。うろ覚えですが空いてる食堂車で食事していると厨房の方?が青森なまりで色々お話を聞かせてくれました。夜明けには通路の簡易席であの紙コップで水飲みながら景色を見ていた記憶があります。
余裕があれば廃止の前に色々な寝台特急に乗ってみたかったです。
この時代だと思いますが「新日本紀行」で寝台特急さくらを東京から長崎までの車内を
レポートした回をRUclipsでアップされてましたので視聴しました
食堂車で働くスタッフのみなさんの奮闘ぶりは今見ても本当大変そうでした
深夜まで調理、サーブを終えた後食堂車で仮眠、さらには早朝から来られる皆様に対応するために早朝にレンジを起こすことを考えると仮眠時間は2、3時間だけだったことと思います。
さくらの元車掌さん(つい先日まで勤務して故郷?に帰るための乗車)が 現役の車掌さんといっしょに「ハチクマライス」のようなものを食べてましたね
朝から晩まで上野、東京に入り浸ってた時期です。
懐かしい。
懐かしい 昭和58年の高校の修学旅行で志賀高原のスキーに行って行きは新幹線とぐったりしなの(笑)381系の強制振り子で列車酔いが多発 帰りもしなのでぐったりそして名古屋からさくらに乗車14系の3段寝台で上段で寝ましたが1月の寒いときに暖房が効かなくて寒いし(泣)風邪を引いた記憶があります 今ではいい思い出ですが・・・とにかく思い出のある寝台特急でした
佐世保行が連結されていて、牽引機がEF65-1000だった時代ですね。後に(5年後)簡易個室であるカルテットが連結されますね。因みにさくらが運転開始直後の1960年に上映された中村嘉葎雄と(萬屋錦之介の弟で、中村獅童の叔父)三國連太郎主演の映画「大いなる邁進」でEF58やSL牽引のさくらが舞台になっています。
後年上りのさくら号で一人の青年がギターを持って長崎から上京されましたね。今や押しも押されぬ大スターになっています。
この弁当の価格って1980年当時のもの?今とかわらないじゃん!
東海道線の夜行列車が華やかだった時代は横浜在住で、横浜駅で乗車の際一般の電車に乗るのとは違った高揚感がありました。
折り畳み式のドアが開いてから二段のステップを踏み締め、客室に入るのは長旅の始まりの儀式とも言えました。
車内で梯子を上り降りしたこと、上段の小さな窓から景色を楽しんだのも幼き頃の良き思い出です。
よく鳥栖駅で、みずほ号を見かけました。熊本行きと長崎行きの切り離しで長時間停車してました。これに乗って東京に行ってみたいな、と子供のころ夢見ていました。結局無くなってしまうまで乗らずじまいでした。サンライズにはいつか乗ってみたいと思います。
制作ありがとうございます。やっぱりこのフォントはいいですね。
父親が長崎出身だった縁で、「さくら」「みずほ」には何度かお世話になりました。特に「さくら」は国内唯一の列車番号1で誇らしかったものです。当時は「なぜさくらとみずほだけは三段式寝台なのか」と思ったものですが、今にして考えれば需要が多かったから乗客減になる15型の導入をあえて見送ったのかもしれませんね。
19時頃の乗務掛の寝台設置のために乗客が皆廊下で待っていたこと。名古屋でも京都でも大阪でも深夜だというのに撮り鉄少年が駅に撮影に来ていたこと。朝6時になると食堂車の準備が出来たと放送があったのでいの一番に乗り込んで洋定食を食べたこと。通過する駅の駅名標に「すおうとんだ」(「すおう」が小さい字)と書かれていたこと。下関で1号車までEF81-300を見に行ったらEF30が来てがっかりしたこと。車内販売が何度も往復していたのに小遣いが足りずほとんど何も買えなかったこと。上段だったのを良いことに肥前山口から長崎まで二度寝したこと。懐かしい思い出ばかりです。
1980年広島で暮らしていました。広島発新見行きの芸備線列車懐かしい。
ありがとうございます
今度は92年の時刻で特急「かもめ2号」と特急「いそかぜ」米子行の時刻表旅をリクエストします
動画作成者さんはあまり山陰本線には興味がないのかも。
以前から、京都or大阪~山陰本線経由の特急まつかぜ(博多行)をリクエストしているのですが、そのままになっています。。。
細かいことですが「新南陽市」は「新南陽」ですね。
周防富田から改称されたときですね。
その先で、現在とは名前が異なる駅
小郡→新山口
新中原→九州工大前
筑前新宮→福工大前
白木原→大野城
三田川→吉野ケ里公園
肥前山口→江北
@@hc-ir2dr 様へ。
昔の駅名で覚えたから、新しい現行の駅名を耳にすると、エッ、何処の駅と思います。
@@hc-ir2dr さま
こうしてみるとJR九州のエリア内で新駅の開設や駅の名称変更があちこちで行われたことがよく分かりますね。
地域に密着した鉄道であることをアピールしています。
この時刻表から15年ぐらい後の時代
京都駅場面において、東京発九州行きの最後の列車(列車名は忘れました)は下り普通列車の最終が出た後に出発をして大阪に停車してくれたので、京都の呑んで最終に乗り遅れてもタクシーで京都から大阪に帰るより、乗車券、特急券、寝台券を払う方が安かったので、何度か乗車したことがあります。 懐かしい思い出です。
出来れば、寝台特急出雲と急行銀河に乗りたかったですね。出雲には乗れる機会がありそうでしたが、高速バスに乗ってしまいました。その後、出雲号はは廃止になったんですね。
この頃でしたらヘッドマークが花びらが白で背景がピンクの白桜と花びらが赤で背景が白の赤桜の2種類あった時代ですね。ただ、当時は合理化により東海道のブルートレインだけヘッドマーク付きだった時代でしたが。後に全国のブルートレインにヘッドマークが復活するようになった頃に、背景が緑で花びらがピンクのものも出現しましたが、最終的には「さくらはやぶさ」になってしまったのは時代の流れとはいえ何か虚しかったですね...
私は東北に地縁があったので、鉄道好きな友人が東海道ブルトレ推しだったのに対して、機関車がスマートに見えると言い張って一時期マーク無しだった東北・北陸ブルトレを推していました。しかし、東海道ブルトレ以外にもヘッドマークが復活したら、すぐに撮影に走りましたね。ほんとは羨ましかった…
私は当時福岡に住んでいました。
九州ではヘッドマークがついていなかったのは残念でした。
寝台特急のヘッドマークは1975年に東京駅発着の列車以外は廃止されてしまいましたが、1984年に九州で復活、その翌年1985年に全国で復活しました。
2000年過ぎてから乗りました。今思えば昭和の雰囲気を感じられた最後の姿でした。B寝台で老若男女が集い知らない人同士で会話する・・・そんな光景がありました。懐かしくて涙が出ます。今はそんな旅も消えて行っています。
一般の電車の車内でも景色を見たり語らいや情報交換をするよりもスマホの画面ですしね。
それは夜行急行でも同じでしたね。特に北海道とか。今は、もうプライバシーとか何とか言って、ああいう空間自体が好まれなくなった気がします(だから、サンライズ出雲が人気なわけです)。夜行バスはすぐ消灯する上、3列席だと会話は生じないし。
@@TSUYOS185 さん、寝台特急が走っていたころは単行本か新聞か雑誌かでしたからね。平成でも読み終わった新聞を回し読みしたりしておおらかな時代でした。
一番懐かしいのはムーンライト九州の展望車ですけど。
@@kataakeo7730 さん、北斗星のパブタイムは贅沢な時間でした・・・。北斗星はあまり会話がなかったですが。
道内夜行は平成初頭でも、稚内行以外は利用者が激減していて寂しかったですが。(網走行は、旭川から先4列向かい合わせにして寝ても迷惑にならないほど)
前後の優等列車の中で急行「銀河」が抜けてますよ!
この2年後の1982年の夏にさくらの東京→長崎を乗車しましたので、停車駅は恐らく同じでしたね。
当時は東京→下関がEF65-1000でしたが、九州内が北陸から転属したEF70が牽引しました。通常は恐らくED76だったでしょうが、ED75-300やEF70の日もあったでしょうね。そして当時の長崎駅で、さくら号の特急・寝台券を有無もなく回収されたのが残念でした。駅や管理局にもよりましたが、国鉄の融通のなさが感じられました。
今から見るととても非効率的でしたが、この時代のゆったりとした流れが良かったな。80年代のタイムテーブルをたくさん上げてください。
しばらく戦前シリーズでしたが、鉄道旅行が楽しかったのは70~90年くらいでしょうか?それ以前だとやたらと混んでいたとも聞きますし。戦前で鉄道旅行が楽しかった時代は会ったのでしょうか?
自分にとってはあまり縁のなかった列車。長崎に行く予定ができたときにはもう廃止されており、結局飛行機往復でした。。。
朝,食堂車で車掌さんがハチクマライスを食べていた光景
転勤で九州福岡へ、初めての一人暮らし、ゴールデンウィーク中の移動で切符がやっと取れたのが寝台特急の「さくら」でした。客車は3段で中段でした。あまり眠れなくて早朝博多に到着、町はドンタクで賑わってました。もう何十年の思い出です。
ドンピシャ世代です。乗ったことはありませんが、小学校入学時に買ってもらった筆箱はPF牽引“さくら”のものでした。
たまたま東京駅へ行き、普段はピンク地に白い花柄だったヘッドマークが、白地にピンク花柄のものをつけていたのを見た時の嬉しさは忘れられません。後年、白地がスタンダードになったのは悲しかったなあ
私にとってブルートレインで真っ先に思い浮かぶのがこの「さくら」です。
「さくら」のヘッドマークを掲げてEF65が疾走する姿がすごくサマになってるんですよね。停車駅の少なさも特急らしさが出てますね。浜松・岐阜・神戸・岡山通過は驚きました。
沼津駅で急行東海に接続していた記憶があります。1980年10月は東海の時間が変わっていたかな?
この改正で4往復から2往復に減便されています。
僕が「さくら」に乗ったのは1983年の3月・僕の中学校入学祝いの家族旅行でした。
夜中の3時くらいにトイレに行こうと起きだすと、親父が廊下の補助椅子に腰掛けて暗い瀬戸内海を見ながら缶ビールをチビチビ飲んでいた(普段は一滴も飲まない人だった)のを今でも鮮烈に覚えています。
当時親父が会社で待遇などでもめていたと知ったのは大分後になってからのことでした(家族旅行も気分転換するためだったのではないかと想像しています)。
親父亡き今となってはあの時すぐ寝台に戻らず愚痴のひとつも聞いてやるべきだったと思っていますが…文字通り「バ〇の知恵は後から出る」というやつですね
子供の頃親にせがんで数回ブルートレインに乗りました。廃止された当時の状況とは今の日本は全く違うと思います。夜行バスだけでなく、定時運行に優れ、快適かつ安全に、寝ながら移動したい人たちはインバウンド需要の中でも一定数あると思われます。例えば、新幹線の止まらない東京〜三重県、奈良県、和歌山県などに途中分割して運行できないかと思ったりします。東京駅発着は混雑で余裕がないと思いますので、品川駅からだと時刻を早くしてゆったり過ごすことも可能なのではかと思います。いつもともやんさんの動画を見て、色々と思いを馳せ楽しませていただいております。ありがとうございますこれからも楽しみにしております。
客単価¥30,000ないと儲からない😵
この時代はブルートレインブームですものね。私が1歳になった時ですね。
あと池沢さとし先生のサーキットの狼で、スーパーカーブームでしたね・・・
駅弁のご案内、すごく好き
値段が時代を感じます
東京から大阪に帰るのに、新幹線でなく、さくらに乗りたいと言って、却下されたのが、丁度この頃昭和55年頃でしたts
名古屋近郊出身のボクは東京を一番早く出発して東京に一番遅く到着するさくら号を眺める機会が最も多かったので、今も寝台特別急行列車の代名詞的な存在です。
3:58 豊橋駅接続の東海道本線 1545M 普通米原行の行き先が「浜松行」になっています。
東海道本線内の停車駅がかなり厳選されていますね。熱海、浜松、岐阜も通過なのには驚きました。
さくら三題…
大いなる驀進
喜劇急行列車
皇帝のいない八月
ブルトレでこれだけの銀幕に掛かった列車を他に知らない。
あさかぜでさえ松本清張の点と線の映画化バージョンだけですね~
大阪ー青森間の寝台特急日本海号の時刻表を取り上げて下さいお願いします。
いつも楽しみに見ています。素晴らしいです。それにいい感じのメロディーと、何と言う曲ですか?内容とピッタリですね!!
概要欄の一番下にBGM情報はありますね。
これまた懐かしい。
熱海通過だったんですね。
東日本と東海の分岐点でしょうから、今では考えられないですよね。
熱海は、東京から九州に行く寝台特急では一部列車のみ停車のようです。それは沼津も同様。
新鳥栖or博多と武雄温泉で乗り換えれば済むから、現在は東京から長崎はずいぶん早く行けるようになりましたね。 時間はすごくかかるものの、長崎から東京までずっと乗り換えなしで行ける便利さも捨てがたい。 この2つを両立した列車が欲しいところです。
懐かしいなぁ(^^)
国鉄職員だった亡父に「乗り放題(正式名忘れた)」を発給してもらって、往復自腹で特急&寝台券を払って行った「傍若無人の1980年8月」当時、厨房2回生だった自分の旅を思い出す。
当時、長崎駅前端にあった「新川(だったかな?)旅館」・・・厨房の俺様を快く迎え入れ
「江戸から小僧が単騎で来訪」を随分に驚かれ、老宿主夫婦とはその後幾重にも交流してたもんだ。
当然、当時の老夫婦からは代替わりされたと思うし、宿を継続されてるのかも分らんが
還暦を見舞えた今・・・長崎へ旅してみたいものだよ
始発、終点だけみたら、他の交通機関との競合もあるんだろうけど、途中停車駅を使った地方都市間輸送に特化させたら利便性あるんじゃないかなと思った。
けど今は客単価¥30,000ないと儲からない😵
筑肥線の 都市部 区間は 現在 地下鉄化されました。
別ルートでの地下化になりましたけどね。もとの区間は筑肥線のドル箱だったのに廃止されています。
@@TSUYOS185 踏切を 消すために 廃止されました。
もともと利用していた人たちにとっては、不便になったでしょうね。七隈線で救済されたところもごく一部のようですし。
この頃の国鉄には新幹線🚅・山手線🚃♻️以外にドル箱はない😉
特急「さくら」 東京 → 横浜 → 沼津 → 静岡 → 豊橋 → 名古屋 → 京都 → 大阪 → 広島 → 徳山 → 小郡(新山口) → 宇部 → 下関 → 門司 → 小倉 → 博多 → 鳥栖 → 佐賀 → 肥前山口 → 諫早 → 長崎 😮
この時刻表を見ていましたら、ブルートレインが廃止になる前に乗っておけば良かったと思いました。
後悔しています・・・
寝台特急さくらは、あさかぜと並んでブルートレインを代表する列車です。
今は、サンライズ瀬戸、サンライズ出雲を除き夜行列車は走って居ません。
因みに新垂井駅は6年後の国鉄最後のダイヤ改正で廃止されました。
この頃は食堂車も車内販売もありましたね。弁当、お土産、お酒やコーヒーも買えました。
近年の臨時のサンライズ出雲は所要時間は20時間近くかかりますが、乗車前に食べ物や飲み物の購入が必須に。個室で冷えたビールや温かいコーヒーを飲むのも贅沢な時代になりましたが、それを差し引いても夜行列車の旅は魅力あるものと言えますね。
だから今は長距離フェリー🚢の方が楽しい😁
あこがれてたけどまだ小学生だったから乗れなかった。
佐世保行きの、早岐でのスイッチバックで機関車をどのようにしていたのかを知りたい
誰かがコメント💬してる😉
東京を夕方に出て長崎にはほぼ正午に到着・・。
今の都内在住者なら、朝7時台(場所によっては8時過ぎ)に家を出て、羽田に行って長崎便に乗り、正午過ぎに長崎市内に着いてしまいますね。羽田発の九州各都市行の便はどこも混雑しているはずです。
このダイヤの7年後、分割民営化直前にさくらに乗車しました。
東京発が16時40分だったと記憶しています。大阪が23時25分くらいだったかな。PF牽引の時刻と比べると、ロクロクの底力が感じられます。スピードアップのために開発されたんだなって思いました。形はPFの方が好きだけど。
九州寝台の復活、不可能なのはわかるけど期待しちゃいます。
EF66はもともと貨物列車用のハイパワー機関車として開発されたものの、貨物列車の大幅な削減で旅客用に転用されたものでした。スピードアップだけでなくはやぶさ号のロビーカー連結にも対応していました。最初は違和感があったものの、力強いブルートレインとしてさまになっていましたね。
@@TSUYOS185
そのロビーカーの試用が、北斗星への連結や、富士との共通運用による連結と、使用場面が増えていく先駆けになったんですよね。
EF66型がブルートレインの牽引として、ロクマルサンダイヤ改正で誕生したんだけど要するに貨物列車が削減された結果で主に二次型を除いて中心に下関運転所が担当することになりました。それまでの牽引のEF65型1000番台PF型ば前年に東京期間区から新鶴見期間区でした。ただし品川客車区常駐でした。
福山雅治が長崎から上京する際、乗車したのがさくら号。
佐世保編成の時刻も見たかった😢
早岐と佐世保だけの停車でした。武雄温泉や有田は通過でした。
早岐で方向が変わるので本務機関車のED76は後ろに付けたまま前にディーゼル機関車を連結、牽引していました。
寝台特急「さくら」には食堂車が連結していたな
ブルートレイン人気No.1
特急界のスター軍団の先頭に立つ人気列車
東京始発の先陣を切って九州に旅立つのはスターたる所以
東京発の寝台列車1番手で栄光の『1レ』だった『さくら』
最後は鳥栖エンドってのは儚かった。
最近鉄道模型で20系の『さくら』が長崎編成と佐世保編成で別々ながらリニューアルされたようで。
どうせなら肥前山口⇔佐世保もやればえェのにィ!(^▽^;)